淡路島歴史探訪~淳仁天皇陵編~
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スタッフ名:休暇村南淡路
みなさん、こんにちは!
休暇村から車で15分弱、福良から国道28号線を洲本方面へ向かい最初の交差点「賀集」から斜め右前に見える史跡をご存知でしょうか?
いままで全然気にしなかったですが、改めて『淳仁(じゅんにん)天皇陵』に行って来ました
淳仁天皇についてはネットで検索しても資料が少ないですが、総合するとこういうことでしょうか
淳仁天皇 733生-765没。第47代天皇。
平城京ができた710年~平安京へ遷都した794年まで、奈良時代は意外に短いが、奈良時代を終焉に導く政争に巻き込まれた悲劇の人
聖武天皇(45代)には男系子孫がなく、後継問題が発生します。
そして娘である孝謙天皇(46)へ譲位しましたが、女系天皇は当時結婚してはいけない習わしだったので、その後の皇太子まで聖武天皇の遺言で定められていました。
この皇太子(道祖王)は素行が悪く廃止され、白羽の矢が立ったのが淳仁天皇でした。
聖武天皇の孫で、皇位継承には縁遠い人でしたが、母方は天智天皇の系統の人であり、天智・天武の両系の血を引く方であったからかも知れません。
聖武天皇の治世から頭角を現した政の中心にいた藤原仲麻呂は、自分の息子の未亡人を嫁がせ、淳仁天皇とは家族同然の関係でした。(祭り上げられる前は、貧乏旗本の三男坊のように市井で生きていた人なのかも知れません)
藤原仲麻呂の強力なプッシュがあったことは容易に推察される若き淳仁天皇は、帝王学も学んでいなかったであろうし、仲麻呂の傀儡であったとも言われています。
あるいは聡明なひとだったが、叔父に遠慮したのかも知れません。
先代の孝謙天皇が、母(聖武天皇の后、光明皇后)の介護のため、玉座を退き、即位します。
ところが、光明皇后が亡くなり、孝謙上皇本人も病で伏せっていたところ、僧・道鏡が現れ、法力でこれを治癒してしまいます。
孝謙上皇は道鏡のいうことを盲目的に受け入れ、政治の舞台で重用されるようになっていきます。
おそらく、霊媒師による洗脳のような感じだったのでしょうか、道鏡の専横を藤原仲麻呂が上皇に諌言すると、上皇は激怒、藤原仲麻呂はクーデター首謀者として殺されてしまいます。
このときの諜報戦には、吉備真備の存在が大きかったと言われています。
淳仁天皇はというと、仲麻呂の専制政治に嫌気が差していたのか、蚊帳の外だったのか、クーデターで祭り上げられることなく、ノータッチだったようですが、仲麻呂(謀反人)サイドの天皇がそのままでいられる訳もなく、皇位剥奪、親王に貶められ、廃帝として淡路島に流刑に処せられます。
1260年の皇位継承の中で、流罪になった天皇は3人ですが、淳仁天皇は元祖。
当時、神であった天皇の流しは前代未聞でありました。
淳仁天皇廃帝の後は、孝謙天皇が称徳天皇(48)と名を変え皇位に返り咲きます。
このように政争渦巻く奈良時代の末期は、ぐちゃぐちゃな状況だったようです。
疫病が流行り、国は荒廃し、奈良の大仏が建立されたのもこの時期でした。
日本は、飛鳥時代に仏教と唐の社会システムが伝来し、豪族社会から天皇を中心とした中央集権国家へと変化しようとしたのが奈良時代。
奈良時代の教訓を活かし、摂関政治が採用され、貴族による集団的政治に変貌していくのが平安時代。
その中で、翻弄された天皇が淳仁天皇。
幽閉が厳しくて脱走を試み翌日病死とされていますが、暗殺されたというのが真相のように思えてきます。 享年32歳。
ですが、島流しされた天皇は、世を儚み、政権担当者を呪い、怨霊となって後任の方々を次々変死させる逸話がつきものですが、淳仁天皇についてはそんなこともなく、御陵(みささぎ)からも呪いを封印するような気配は感じられません。
ひょっとしたら逃げ延びて余生をひっそり送ったのではないか、という話もあります。
宮内庁が厳正に管理している淳仁天皇陵
観光ガイドブックにもほぼ載らないけど、奈良時代の終焉と深く関わったエピソードを知ると、一度、訪ねてみたくなる場所であります。
淡路島では新玉葱の収穫がはじまっています
まもなく鱧(ハモ)の季節もやってきます
是非、休暇村南淡路へお出かけください!
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