天皇の冠-漆塗職人の技- 「越前漆器」
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スタッフ名:杉森
こんにちは!
先日ですが、小学校の修学旅行生様がお泊りになられました。結構”今の子は”と言われがちですが、相手をしてみると、とてもしっかりしていました。売店で接客させて頂きましたが、予算が足りないと”お金が足りないのでこれを外してください。ごめんなさい“としっかり伝えてくれますし、皆さんマイバックを持っていて”袋は大丈夫です”と言ってくれます。自分が小学生の頃、もしお金が足りなかったらモジモジして、あんなにハッキリ受け答えは出来なかったと思います。偉そうですが、”最近の子はしっかりしているなぁ”と思う今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか、スタッフの杉森です。
今回は、福井の伝統工芸「越前漆器」の歴史を紹介したいと思います。
実はびっくりされると思いますが、「越前漆器」は量産体制が整備され、ホテルやレストラン向けの業務用漆器として、全国の8割以上のシェアを占めています。
-継体天皇の凡ミスで始まった「越前漆器」-
継体天皇とは 福井県出身で「男大迹王」として5世紀末の越前地方(福井県坂井市三国町辺り)を統治し、大伴金村らの度重なる説得を受け、58歳にして即位した天皇
越前漆器の歴史は、1500年も昔にさかのぼります。第26代継体天皇が越前国にお越しになったときに、冠を落としその修理を片山集落の「塗師」に命じました。塗師は、冠の修理だけでなく黒漆を綺麗に塗ったお椀を継体天皇に献上しました。継体天皇は、この器をいたくお気に召し、片山集落での器づくりを奨励しました。これが「越前漆器」のはじまりと伝えられています。逸話の注目するべき点は、1500年前の時点で、すでに継体天皇が感動するような器をつくる技術を持っていたということです。
-江戸時代から明治時代にかけて-
河和田地区の越前漆器職人であり漆の専門集団が全国に漆掻きに回る。特に岩手県北から青森県南にかけて広がる地域では、福井県から出稼ぎに来ていた漆掻きさんたちを越前衆と呼びました。
今日では「あそこの家の先代は越前衆だ」などと、個人にも用いる場面があります。
「秋田や津軽ではなく、なぜここ南部(岩手県北から青森県南)に来たのか」その答えは「この地方にはよそ者を受け入れる寛容さがあり人がいい所だ」というものでした。
また、越前から南部まで歩いて約30日間を要したといいます。明治27年河和田村に日本漆商工會が設立すると、出稼ぎ漆掻きさんのための臨時列車を仕立てたといいます。
-伝統と変化-
江戸時代末期には蒔絵の技術や沈金の技法が伝わり、華やかな装飾も施される様になりました。明治時代中期ごろになると漆器の主流だったお椀などの丸物だけではなくお膳や重箱などの角物も作られる様になりました。そこから地域全体に生産体制が広がっていく様になりました。現在では伝統的な生産方法に加えて、機械で作られる業務用の漆器も増えました。また、カラフルでポップな色の可愛い湯呑や箸、汁椀や飯椀なども作られています。また、
和製「バロタン」 バロタンとは、ベルギーが発祥のチョコレートを入れる専用の箱のことです。エコの観念からバロタンは必要なもので、それをGODIVAと「越前漆器」がコラボして作ったそうです。
-「越前漆器」とふれあう-
うるしの里会館 展示見学、職人工房、ミュージアムショップ、ワークショップ、越前塗山車等、「越前漆器」を知る事ができ、また新旧「越前漆器」を購入することもできる施設になっています。
今回のご紹介は以上です。
「越前漆器」の誕生は天皇のミスからでしたが、たくさんの職人たちが技を磨き、研究し作り上げ今日に至っています。そして現在もそれは進行形で様々な漆器が生み出されています。そんな「越前漆器」に興味を持った方は一度行ってみてください。楽しいですよ。
うるしの里会館 福井県鯖江市西袋町40-1-2 休暇村越前三国より車で約60分