魯迅、人として生涯の師 ”藤野厳九郎先生”
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スタッフ名:杉森
~国境を越えた生涯の師~
おはようございます。スタッフの杉森です。
前回新年のご挨拶と一緒に「福井県の近代史」を紹介したいとお伝えしたので、今回は「藤野厳九郎先生」をご紹介したいと思います。まず、「藤野厳九郎先生」を語るうえで欠かせないのが「魯迅」という中国近代文学作家です。
~魯迅とは~
-魯迅の生い立ち-
「魯迅」は1881年9月25日、浙江省紹興市に周家の長男として生まれました。11歳の時に紹興で最も厳格な塾であった三味書屋で学び科挙※に備えていましたが、父が亡くなったため17歳の時に南京に行き、海軍の学校である江南水師学堂に給費生として入学、続いて陸軍の学校の鉱路学堂に入学しました。
※科挙:中国で598年から1905年(隋から清の時代)まで行われた官僚の登用試験。
-日本への官費留学-
魯迅は1902年に鉱路学堂を卒業した後、他の同期生とともに官費留学生として日本に留学しました。清朝政府は日清戦争後ということもあり、近代化を担う人材育成のための日本留学を勧めていました。最初、東京の弘文学院に入学し普通科で2年間、日本語の他算数、理科、地理、歴史等の教育を受けました。そして、1904年9月、魯迅は仙台医学専門学校に入学しました。無試験で、授業料は免除されていました。魯迅は医学の道を選んだ理由について後に、「卒業後、私は人種を改良して強種をつくっておかなければ強国になれないという考えから日本に行って医学を学んだ」と語っています。この時期に「藤野厳九郎先生」と出会っています。
-魯迅の転機・医学から文学へ-
魯迅が医学から文学の道へと進む転機となった出来事は、「幻灯事件」として知られています。中国人がロシア軍のスパイとして捕らえられ処刑される場面でしたが、処刑の場面の残酷さもさることながら、その光景を見つめる中国人の無表情さに衝撃を受け、その時のことを「あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切ではない、と考えるようになった。・・・我々の最初になすべき任務は、彼らの精神を改造することである。そして、精神の改造に役立つものと言えば、私の考えでは、むろん文芸が第一だった」と回想しています。魯迅は学校を退学し中国に戻ります。帰国後は、小説集3冊、雑文集17冊、散文詩集1冊、回想記1冊を刊行したほか、『中国小説史略』をはじめとする研究書や論文、さらに膨大な翻訳を残し、このなかで圧倒的な量にのぼるのは雑文集です。とくに、1927年から始まり1936年に病没するまでの上海時代は、彼は教職に就かず、フリーの文学者・思想家・論争家として母国で指導力を発揮し中国の近代化に尽くした。著書に「阿Q正伝」、「藤野先生」、「狂人日記」、「小さな出来事」、「故郷」、「宮芝居」などがある。
~「藤野厳九郎先生」とは~
ー藤野厳九郎の生い立ちー
1874年、現在の福井県あわら市の医者の家で生まれた。厳九郎の父・藤野升八郎は大阪適塾で緒形洪庵から医術の指導を受け、西洋医学に明るい人物だった。1882年、厳九郎が9歳の時、升八郎が他界する。この頃、厳九郎は丸岡町の平章小学校に所属していたが、家から離れていたため、近くの元福井藩校講師・野坂源三郎が開く塾に通い、ここでは四書五経などの漢学を学び大陸の文化に影響を受けました。
-解剖学教授・藤野厳九郎の誕生-
「藤野厳九郎先生」は、小学校から福井県尋常中学校(現在の藤島高校)に進学し、2年生を終えたところで愛知県立医学校に入学しました。医学校を卒業すると、母校である愛知医学校の解剖学教室に入り、助手から助教授になりました。その後、故郷の福井に近い第四高等師範学校への転勤を希望しましたがかなわず、生命保険会社の社医をしながらしばらく東京大学で解剖学の研究をした後、恩師の紹介で仙台医学専門学校に就職しました。最初は講師として就職し、1904年7月、周樹人(後の魯迅)が入学する2ヶ月前に教授に昇格しました。
ー「藤野厳九郎先生」の転機ー
12年に東北帝国大学医学専門部の教授となったものの、医学教育制度の改革で専門部が廃止され、教授として残れずに15年に退職したのである。その経緯を巡っては諸説あるが、「学位がないとか、県立の愛知医学専門学校卒業の経歴しかないとか、果ては外国留学の実績がないなどといわれ、結局は仙台に残ることはできなかった」とされる。その後は、福井県の郷里に帰り、開業していた次兄を手伝うとともに、三国町(現坂井市)や生家の下番など地元で開業医を続けた。
ー「藤野厳九郎先生」の人柄ー
頑固ながら「医は仁術」を実践。開業医時代の「藤野厳九郎先生」の人柄をうかがわせるエピソードがあります。「気むづかしい人で、特に機嫌が悪いと非常につきあいにくい人であったが、貧しい人からは診療代を取らず、盆払い、暮れ払いに持ってくるまで、いつまでも待って督促はしなかった」そうです。
~仙台での出会いと別れ~
「藤野厳九郎先生」と「魯迅」との出会いは、教授と教え子という立場で出会います。小説「藤野先生」では、
講義が始まって何日か経った時、魯迅は藤野先生に呼ばれ「私の講義のノートがとれますか」と聞かれたので「なんとかできます」と答えると、「持ってきて見せてください」と言われました。
2、3日して返ってきたノートを開いて見た魯迅は、驚きと感激で胸がいっぱいになりました。講義を書き取った中の文字や絵の誤りが、赤インクでくわしく訂正されていたからです。心のこもったこの指導は、魯迅が藤野先生の講義を受けている間、ずっと続いたそうです。
ー旧家出身で愛煙家という共通点ー
魯迅は1881年9月25日、清の時代の紹興(現中国浙江省紹興市)に生まれた。没落しかけたとはいえ、生家の周家は代々、科挙の合格者を出し続ける名家だった。一方、藤野家も代々、医者の家系であった。魯迅と厳九郎はともに旧家出身で、幼くしていったん母方の親戚の養子となったり、父親を早くに失くしたりと境遇が似ている。魯迅はヘビースモーカーとしても知られ、厳九郎も「たばこは朝日が大好物で噛むほどいつも吸っていられた」こうした共通点も二人を深く結びつけたのではないでしょうか。
ーそして別れー
文学の道に進むことを決心した魯迅は、藤野厳九郎に仙台医学専門学校を退学することを告げました。その時の情景を、魯迅は「彼の顔には、心なしか悲哀の色が浮かんだように見えた。何か言いたそうであったが、ついに何も言わなかった。」と記しています。藤野厳九郎は、魯迅が仙台を立つ前に自宅に呼んで自分の写真を渡しました。裏には「惜別 藤野 謹呈 周君」と書かれていました。魯迅が仙台を離れたのは1906年3月のことでした。
芦原町と中国の浙江省紹興市との間で締結された友好都市を記念して、藤野家遺族から三国町宿第35号14番地にあった旧宅を寄贈されたもので、あわら温泉湯のまち広場に移築されました。
仕事の途中に抜け出し、「藤野厳九郎記念館」に足を運びましたが、なんと”閉館中”。グーグルでは営業中だったのに、かなりショックでした。ですが、隣に不思議な入り口を見つけました。
"AWARA PHOTOSPOT あわらロマン館"だそうです。お面、刀等の小物が用意されています。
芦原温泉湯の町広場には、この様な恐竜がいて、絶好のPHOTOSPOTにもなっています。
「藤野厳九郎先生」と「魯迅」の付き合いは僅か2年間にもかかわらず、「魯迅」に「私がわが師と仰ぐ人のなかで、彼こそはもっとも私を感激させ、私を激励してくれたひとりである」と言わしめるまでの関係に発展していました。また「藤野厳九郎先生」をモチーフにした小説「藤野先生」は、日本のみならず中国の教科書にも採用され広くその名を知られています。二人によって示された、国籍や立場の違いを超えた、お互いへの尊敬に満ちた人間関係のあり方は、これからを担う世代へのお手本となるのではないでしょうか。
大分長編になってしまった今回のブログはいかがだったでしょうか。近代史になるとちょっと力が入りすぎてしまうので気を付けます。また、今回ご紹介した「藤野厳九郎記念館」はいつ開館かわかりませんが、もう一度チャレンジしてみたいと思います。皆さんも休暇村越前三国にお越しの際は是非足を運んでみませんか。
「藤野厳九郎記念館」 あわら温泉湯のまち広場 えちぜん鉄道あわら湯のまち駅前
休暇村越前三国より車で約35分
2023年1月14日(土)ロビーコンサート開催決定
1月14日(土)19:30より休暇村越前三国では、人気のロビーコンサートを開催します。
懐かしい曲、童謡など皆様ご存じの曲を、地元バンドの「ハッピーホーム」さんがハッピーな時間を演出してくれます。夕べのひと時をお楽しみください。