何でここに鳥居が建っているの?
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スタッフ名:森田
那須町のお隣、大田原市にある光丸山法輪寺。
平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人、西行法師が奥州行脚の際に歌を詠んだ「西行桜」、
鼻の高さ1.3メートル、重さ1トンで木製の物としては日本一と言われている天狗面、
後嵯峨天皇の勅願所となった際に靈雲法親王の直筆で書かれた立額が残る勅額門(ちょくがくもん)
など、多くの見所がありますが、ひと際目を引くのは川の流れの中に建つ鳥居ではないでしょうか。
何故川の中に鳥居が立っているのか、それは信徒の儀式に深く関わっています。
一昔前まで、信徒は祭礼のとき寒中に水垢離をとり、六根清浄のうえ奥の院に参詣していました。
そのため川の中に鳥居が建てられたとのことです。
川の中に鳥居があるということも十分珍しいのですが、ここまでブログを読んでくださった方の中には「あれ?お寺なのに鳥居があるの?」と思った方もいらっしゃるかもしれません。
その疑問はごもっともで、現代日本では神社とお寺がはっきり区別されていることが多いのですが、光丸山法輪寺は全国でも珍しい、神仏混淆(しんぶつこんこう)時代の名残を残すお寺なんです。
神仏混淆とは
自然を崇拝し、その中から神を見出す「神道」と、6世紀に伝来しその後全国へ広まった、各々が悟りや解脱を目指す「仏教」。
現代日本では分けて考えられることの多いこの2つの宗教ですが、幕末までは神と仏を同一視して信仰するという考え方が広まっていました。例えば、天照大神(あまてらすおおかみ)は太陽の神様だから太陽と関係の深い大日如来の化身である、といった具合です。
これを神仏習合、または神仏混淆と言います。
民衆にも広く浸透していたこの考え方ですが、明治維新後、政府による神仏分離令が発せられ、現代のようにはっきりと区別されるようになり、現在に至ります。
なぜ長い間神と仏が同一視されていたのか、なぜ明治政府は神仏分離政策を推し進めたのか、他にも神仏混淆の名残があるところはあるのか、など、まだ夏休みの自由研究が終わっていないお子様がいらっしゃる方、神仏混淆について調べてみてはいかがでしょうか?
光丸山法輪寺周辺には他にも
水戸黄門として知られる徳川光圀の命により日本最初の学術的な調査が行われた侍塚古墳をはじめとする古墳群や、
栃木県唯一の水族館にして日本最大級の川の水族館である栃木県なかがわ水遊園では、県内で発見された金色(アルビノ)のニホンアマガエルを8/31まで特別展示しているなど、題材になりそうなものがあります。残り僅かな夏休み、自由研究にお困りの方は是非大田原市にお越しください!