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2025.02.14

筑紫君磐井と岩戸山古墳 磐井の乱と安曇族移動の話

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スタッフ名:矢津田

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岩戸山古墳といわいの郷

福岡県出身の私は、お茶と言えばまず「八女茶」が頭に浮かぶのですが、皆さんは何茶を思い浮かべますか。その福岡県八女市に岩戸山古墳はあります。

岩戸山古墳は、筑紫の君磐井が埋葬された古墳です。この時代の継体天皇の古墳が200m、筑紫の君磐井の古墳は170m。この頃は天皇ではなく、大王(おおきみ)と呼ばれていた時代、大王に匹敵する巨大な前方後円噴です。古墳には、岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」が併設されています。
継体天皇についてはこちらをごらんください。

絶大な権力者?第26代「継体天皇」

627年 古代最大の内乱 壬申の乱

「古代最大の内乱」でネット検索すると「壬申の乱」が表示されます。
壬申の乱は、天智天皇の弟「大海人皇子」と天智天皇の子「大友の皇子」が戦った天皇家内の戦いで、勝った大海人皇子が天武天皇となります。天皇家内の争いです。

ちなみに、天智天皇は645年に乙巳の変(蘇我入鹿を暗殺するクーデター)を起こした中大兄皇子としても有名で、変の後は皇太子となり大化の改新を行った人物です。
乙巳の変の主役のもう一人中臣鎌足は、天智天皇から「藤原」の姓を賜り、日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖となります。

527年 古代最大の内戦 磐井の乱

「壬申の乱」と「大化の改新」は、歴史に興味のない人でも聞いた覚えがあるでしょうが、その100年前に起きた「磐井の乱」については、知らない方も多いのではないでしょうか。

「磐井の乱」は、継体天皇の時代の527年に始まり、翌528年ヤマト王権により鎮圧された日本古代史上最大の内乱と言われています。ヤマト王権側から見れば、朝鮮半島の西南部の国「百済」を助けるためのヤマトの援軍を、ヤマト王権に不満を持っていた筑紫国造磐井が新羅と手を組んで反抗。ヤマト王権軍の行く手を妨害したため、起こった反乱のようにいわれています。

九州側から見れば、ヤマト王権による軍事的負担を強要に不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し起こした反乱、ヤマト王権からの圧力に耐えかねた磐井を中心とした豪族たちが、自らの権益を守り、ヤマト王権からの独立を目指した「独立戦争」とも考えられるようにもなっているようです。
 
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八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」と「石人・石馬」

古墳の周りには埴輪を並べるのが一般的ですが、筑紫君一族の古墳には石の彫像が並べられました。これが「石人・石馬」です。磐井の乱の後、ヤマトから来た兵に、「石人・石馬」は破壊されました。「いわいの郷」には、破壊された「石人・石馬」も展示されています。

岩戸山古墳

この木が生い茂った丘が古墳です。

磐井の乱と阿曇氏(安曇氏)の移動

福岡市の志賀島にある「志賀海神社」は、阿曇氏(安曇氏)の氏神です。安曇族(あづみぞく)は、古代日本を代表する海人族で、海神(ワタツミ)を信仰する神系氏族です。弥生時代から重要な地位にあり、志賀島を本拠地としていました。6世紀の中ごろ、この安曇族は全国各地に散らばったと言われており、全国に「アツミ」や「アズミ」の地名を残しています。
安曇族の移動は、磐井の乱で磐井側につきヤマト政権と戦い敗れたためとも言われています。
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海上交通の要・博多湾を守る海神の総本社 志賀海神社

長野県安曇野の穂高神社 ルーツは安曇族に

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信州安曇野。この地を開拓したと言われるのも九州から安曇族です。磐井の乱がなければ、筑紫の君磐井がヤマトに勝っていたら、この地は安曇野ではなかったかもしれません。

穂高神社

岩戸山古墳には休暇村志賀島から休暇村南阿蘇の道中に

休暇村志賀島

休暇村南阿蘇

リトリート安曇野ホテル