トラベルマガジン

観光

2023.09.15

京都郡みやこ町の「綾塚古墳」

799 view

スタッフ名:矢津田

京都郡みやこ町、どのあたりか分かりますか?

画像1
京都(きょうと)ではなく、京都郡(みやこぐん)と読みます。
福岡県京都郡みやこ町 福岡県 です。
福岡県の昔のお話と言えば、休暇村志賀島がある「志賀島」で発見されたと言われている「金印」が有名だと思います。金印は、西暦57年に、後漢の光武帝が、倭に沢山あった国のうち、奴国王(今の春日市から福岡市にかけての地域)に授けたものと言われています。西暦57年は弥生時代です。

金印には、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)という文字が彫られていますが、なんでこれ「かんのいなこくおう」って読まずに、委を倭(わ)って読むんでしょうね。魏志倭人伝でも「わ」は「倭」という字を使ってるようですが。

金印は、卑弥呼と結び付けられることがありますが、卑弥呼はもう少し後の時代。弥生時代末期から古墳時代です。

志賀島ビジターセンター

画像1
画像2
弥生時代■ 紀元前9,8世紀から紀元後3世紀
古墳時代 ■■■■■ 3世紀半頃~7世紀
飛鳥時代     ■■ 592~710年
奈良時代       ■ 710~794年


金印  1世紀半ば(弥生時代)  
卑弥呼 2世紀末~247年(弥生~古墳時代)

 (日本古代史空白の4世紀)

推古天皇 554~628年(古墳~飛鳥時代)
聖徳太子 574~622年(古墳~飛鳥時代)
蘇我馬子    ~626年(古墳~飛鳥時代)

※日本古代史空白の4世紀…日本には文字が無かったため記録がなく、中国の書物にも記録がないため、どのようなことがあったか不明な時代。倭に沢山の国があった時代からヤマト政権になる過程もこの時代です。

豊前国について

私が生まれ育った場所は、かつて豊前国と呼ばれていた場所ですが、明治時代の廃藩置県で、福岡県と大分県に分かれてしまいました。そして、今は筑豊と呼ばれています。井上陽水さん、IKKOさん、小峠さん、バカリズムさんを輩出しています。

この筑豊の香春町から仲哀峠(仲哀トンネル)を越えると、同じくかつては豊前国だった、京都郡みやこ町です。

仲哀というのは14代の仲哀天皇(2世紀末)に由来すると言われています。日本書紀では、仲哀天皇は熊襲との戦いで、筑紫で命を落としたと言われています。この熊襲との戦いに同行していた神功皇后は、仲哀天皇の意思を継ぎ、熊襲との戦いに勝利し、海を越えて新羅へ攻め込み(いわゆる三韓征伐)、帰国後に仲哀天皇の遺児である、後の応神天皇を出産したそうです。
この2世紀末、仲哀天皇と神功皇后の時代は、魏志倭人伝の邪馬台国に卑弥呼がいた時代と重なるということですね。

明日香村の石舞台古墳と同時期、同規模の古墳 綾塚古墳

奈良県明日香村の石舞台古墳
7世紀初頭に造られた、日本最大級の方墳で、蘇我馬子の墓ではないかと言われています。墳丘の盛土が全く残っておらず、全長19.1m巨大な石室が露出しています。

なら旅ネット 石舞台古墳

北部九州を代表する巨石墳 綾塚古墳

初めて明日香村に行った時、あちこちに古墳があることに驚いたのですが、生まれ育った豊前国にも、あちこちに古墳があることに気づきました。違いは、綺麗に整備されているか、いないかでしょうか。明日香村の方が、お金をかけ大切にされているという感じです。その、豊前国に沢山ある古墳の一つ「綾塚古墳」は、7世紀初頭のもので、直径約41mの円墳、石室の全長約20mと、石舞台古墳と、ほぼ同年代、同規模の巨大石室を持つ古墳です。

福岡県文化財データベース 綾塚古墳

画像1
画像1
画像1
1694年にこの古墳を訪れた、黒田藩の儒学者貝原益軒も、その大きさに驚いたことを「豊国紀行」に記していおり、明治政府に招聘され、日本の古墳研究の先駆者としても名高い、イギリズ人のウイリアム・ゴーランは、この地域に群集する古墳群について、「古墳時代にこの地域が重要な場所であったことは明らかである。」との見解を示しています。
画像1
画像2
画像3
鳥居に刻まれた「女帝神社」の文字
綾塚古墳の前には鳥居があり、その鳥居には「女帝神社」という文字があります。「綾」という文字も女性っぽいのですが、この古墳は、「7世紀初頭の女帝」のお墓ということでしょうか。

魏志倭人伝の、2世紀後半起こったとされる「倭国大乱」後に、卑弥呼という女性を王にしたという記述。そして、日本古代史空白の4世紀後、ヤマト政権が九州から関東にかけての広い地域を統一するまで、どのような歴史があったのでしょうか。この古墳もその歴史に関わっているのでしょうか。
 
画像1

おまけの情報

グーグルアースで確認 「卑弥呼」の墓ではと言われる巨大古墳
魏志倭人伝には、卑弥呼の墓について「卑弥呼以って死す。冢つかを大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人」と書かれているようです。

径百余歩とは150m位、そして100人超の殉葬者が埋められた。卑弥呼の頃は、偉い人が死ぬと、人が一緒に埋められたようです。のちの時代になると、人の代わりに埴輪が埋められるようになったようです。ということは、埴輪が出た卑弥呼の古墳候補地は、卑弥呼の墓ではないということでしょうか。

筑豊地区、田川郡の赤村で、地元の人の間では、以前から古墳ではないかと言われていた場所があります。ここが、グーグルアースの衛星写真により「全長約450m、後円にあたる部分の直径が約150m」という、魏志倭人伝に記述された、卑弥呼の墓の大きさに一致する前方後円墳型の地形が確認され、卑弥呼の墓ではないかという話が出ていると耳にしました。まだ、未発掘の場所です。

住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見されているとのこと。

これが、本当に前方後円墳であれば、全長486mという仁徳天皇陵古墳(大山古墳・大仙陵古墳)に次ぐ、日本で2番目の大きさの古墳ということになます。

その姿は、リンク先の写真をご覧ください。

田川地域と古代史

西日本新聞記事「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?

古墳を紹介したトラベルマガジン

特別史跡「王塚古墳」と国指定史跡「竹原古墳」

最後はグルメ「肉肉うどん」

綾塚古墳のついでに、小倉発祥で、最近人気が出ていると聞いた「肉肉うどん」を、グーグルマップですごく口コミの高いお店で食べてみました。どっさりと刻み生姜を入れて食べる、博多の肉うどんとは違う肉うどんです。家族経営で、小さなお子さんがお手伝い。優しい気持ちになれます。最近、こういう光景はあまり見なくなりました。
画像1
画像2