ブログ
2018.01.22
6,716 view
スタッフ:矢津田
大河ドラマの舞台も戦国時代から幕末に代わりました。
今年の主役が西郷隆盛「西郷どん」になったのも、明治維新150年の年だからなのでしょう。
あの「篤姫ブーム」の時のように、鹿児島の街は賑わうことと思います。
下田は日米和親条約の締結に伴い、日本で最初に開港となった港です。
この街には薩摩藩とともに明治維新の中心となった、長州藩の吉田松陰の足跡が残されています。
1853年 ペリー艦隊一度目の来航(黒船来航)
1854年 ペリー艦隊二度目の来航
1854年 吉田松陰24歳 下田踏海事件
西洋列強国から日本を守るためには西洋先進国を知ることと、海外渡航を決意した吉田松陰は、
長崎でのロシア船密航を企てますがかなわず、その後ペリーの船に乗り込もうと手を尽くします。
最後は、下田に移動したペリー艦隊に乗り込むため、弟子の金子重輔と共に下田湾内の柿崎弁天島に隠れ、
夜になると小舟をこぎ出し、ペリー艦隊のペリー旗艦ポーハタン号に乗り付け密航を訴えました。
ペリーは幕府からの許可を受けるまで迎え入れることは出来ないと、下田湾の福浦へ二人を送り返しました。
これが下田踏海事件です。
黒船に乗り込むため船をこぎ出した弁天島にある、吉田松陰と金子重輔「踏海の朝」の像。
この島に身を隠し、この先に停泊する黒船、ペリー艦隊を目指し小舟を漕ぎだしました。
弁天島の前を航行する黒船(観光船)
今は、ペリー艦隊ではなくクルザーが浮かぶ下田湾。
「至誠通天」の碑(孟子の言葉)
吉田松陰が引用し「至誠にして動かざるは未だこれ有らざる成り」という言葉を残しています。
(誠を尽くせば、人は必ず心動かされる。)
標識を頼りに歩き続けます。
弁天島から「吉田松陰上陸の碑」までは約1.5km。
イメージとは違った吉田松陰上陸の碑。
海を眺望出来る場所にあるのだろうイメージしていた「吉田松陰上陸の碑」は、
道路横のひっそりとした茂みの中にありました。
えっと思いましたが、これはこれで、歴史や現実味を感じるものでした。
二人が黒船から送り返された福浦から見た下田湾。
ここに上陸後、吉田松陰は自首し、拘禁され、長州の萩に護送されます。
1856年8月から1858年12月 松下村塾で塾生を指導
1859年 吉田松陰29歳 安政の大獄で斬首
長州に戻った吉田松陰が松下村塾で指導をしたのは2年数ケ月ですが、
幕末・明治において大きな活躍をする久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋など逸材を育てました。
夏に度々下田を訪れた三島由紀夫は、この像を「吉田松陰の魂がある。素晴らしい」と絶賛し、
下田を訪れた英国人記者なども案内していたようです。
人間にも春夏秋冬があり、十歳にして死ぬ者には十歳の中におのずから四季がある、
二十歳には二十歳の四季、三十歳には三十歳の四季、五十、百歳にもおのずから四季がある。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
という言葉を吉田松陰は最後に残しています。
吉田松陰の下田の日々は、人生の中で一番暑い、夏の日々だったように感じます。
メールアドレスとパスワードの
ご登録がお済みの会員様
ご登録のメールアドレス・パスワードを入力後、
ログインしてください。
Qカードをお持ちで
メールアドレスのご登録をしていない会員様
初めてご登録されるお客様
※お客様の入力された情報は
「SSL暗号化通信」により保護されています。
安心してご利用ください。