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2025.02.04

佐竹家物語中編「義重大ピンチ!独眼竜との激闘!」

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スタッフ名:藤原

秋田市の中心JR秋田駅から徒歩10分ほどのところに千秋公園があります。
この公園はに秋田市指定名勝に指定された歴史ある公園で、多くのイベントが行われるなど観光地として、また憩いの場として人気のスポットです。

そんな千秋公園ですがかつてここには久保田城と呼ばれる城がたっていました。
久保田城は藩政時代の秋田藩で約300年居城とされた城でした。
そんな秋田を治めたのが佐竹氏。
かつて関東地方で勢力を拡大した武家で、1600年の関ヶ原の戦い後に秋田へとやってきました。
それ以来秋田の地を守り続けた佐竹氏でしたが、彼らの道のりは決して平坦なものではなく、壮絶な戦いを経てのものでした...
こんにちは!
前回から続いて今回は佐竹家物語中編を書いていきたいと思います。
今回の主人公も佐竹家18代目当主佐竹義重。
前回は常陸の名家の当主となった義重が北条氏といった強敵と戦いながら南奥州の覇者になっていくまでを解説してきました。

順風満帆な武将ライフを満喫していた義重でしたが今回思わぬ強敵が現れます。
それは関東の勢力でもなく、北条でもない、北の大地からやってきた「竜」の異名を持つ人物でした。
そんな強敵を前に義重はどう戦うのか!その姿に迫っていきたいと思います。

「佐竹って秋田でよく聞くけどよくわからない...」
「久保田城に行くから佐竹家についてもっと知りたい!」
そんな方にピッタリな内容となっていますので今回も読んでいただけると嬉しいです!
天下人定まる。その時義重は
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未だ戦乱が続く北関東の地とは異なり、中央政権ではいよいよ新たな天下人が決まろうとしていました。
前回開設した沼尻合戦と同時期、中央では織田信長亡き後の織田家を牛耳った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と徳川家康ら反秀吉連合軍との間で小牧・長久手の戦いが起こっていました。
約1年にも及んだこの激戦は最終的に家康が秀吉の配下になるという結果で収束します。

こうして文字通り敵なしになった秀吉は一気に天下人へと上り詰めていきます。
そんな秀吉が関東勢力でいち早く味方に引き込んだのが義重でした。
北条氏はもとより織田信長と関係が良くなく、跡を継いだ秀吉にも北条氏は反抗的な態度をとっていました。反北条のリーダー的存在だった義重の存在は関東ににらみをきかせたい秀吉にとって大きな味方に映ったのかもしれません。
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義重もこれに応え、以降佐竹家は中央政権とのつながりをより強めるようになりました。
そして1855年、武士の最高職太政大臣に任命された羽柴秀吉は性を豊臣に改め、ここに豊臣政権が誕生することになりました。

こうして新たな指導者の誕生で収まるかに思えた戦乱でしたが、この後佐竹家は大きな戦いに巻き込まれることになります。
奥州の雄との対立
大きな戦いのきっかけは同盟を結んでいた会津蘆名の後継問題でした。
1584年蘆名家の当主蘆名盛隆が家臣に暗殺されるという事件が起きます。
盛隆の長男亀王丸はこの時わずか生後1か月であり、家中からは別の当主が必要との声が上がります。
この時義重は亀王丸の後見人となり蘆名における発言力を高めていきます。
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実はこの時蘆名亀王丸の後見人はもう一人おり、それが山形米沢に本拠を置く伊達家でした。
伊達家当主伊達輝宗(上の肖像画の人物)は義重の義理の兄であり(義重の正室が伊達家出身)、二人の仲は良好だったとされています。
しかし輝宗が次男伊達小次郎を蘆名当主に推薦したことで雲行きが怪しくなります。

義重は亀王丸の正当性を理由にこれを拒否、蘆名家中もこれに従います。
あからさまに佐竹になびく蘆名の態度に輝宗は激怒
蘆名と伊達はこれ以降小競り合いを繰り返すようになります。
そして同じ年輝宗は家督を長男の政宗に譲ります。
伊達政宗、後の世に「独眼竜」と恐れられる戦国屈指の名将です。
決戦人取橋!政宗を圧倒する義重
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後の仙台藩初代藩主であり東北最大都市仙台市中興の祖として知られる伊達政宗ですが、
戦国武将としての彼は非常に凶暴な人物でした。
家督を継いだ政宗はすぐさま軍事行動を起こします。
元来東北地方は伊達家を中心とした婚姻関係によりほとんどの家が親戚同士でした。
しかし天下統一を野望に掲げる政宗はお構いなしに近隣の勢力に攻め込みました。

その様はすさまじく小手森城というお城を攻めた際に、見せしめに女子供含めた全員の命を奪ったという逸話が残っています。(そしてその様子を家臣に自慢した手紙も残っているとか...😱)
とにかくこのいろいろやばすぎる暴れっぷりは流石の戦国時代でも通用せず、この年、敵方によって父輝宗は暗殺されてしまいます。
しかしこれで闘争心に火が付いた政宗は輝宗の初七日法要が終わったと同時に弔い合戦と称して軍事行動を再開、その矛先は会津の蘆名に向けられるようになります。

伊達と敵対関係にあった二本松城の畠山氏は蘆名に救援を要請。
自力で抗うのが困難と判断した蘆名陣営はここで義重に援軍を求めます。
のちに5年にもわたって続く独眼竜との戦いが始まりました。

 
1585年11月、二本松城を伊達軍は1万を超える大群で包囲。
籠城戦が続く中で報を聞いた義重は岩城・相馬ら反伊達勢力からなる3万の連合軍を結成。
二本松城近くの地に布陣します。
連合軍接近の方向を受けた政宗は本宮城(現在の福島県本宮市)に戻ると連合軍との決戦を決意。
7千程の兵を率いて本宮城南の阿武隈川にかかる人取橋に向かいます。
そして政宗率いる7千と義重の連合軍3万による東北屈指の激戦「人取橋の戦い」が始まりました。
開始当初優勢だったのは政宗でした。
かつて伊達家が進めていた婚姻同盟により、親戚筋の大名が東北には多く、
政宗はこれを利用して連合軍の大名に調略の手を伸ばしました。
そのため連合軍の中には合戦に消極的な部隊も多く、義重の目論見から大きく外れた展開になっていきます。
しかしここからが義重の真骨頂、自ら部隊を率いて陣頭指揮をとり伊達軍を次第に押していきます。
 
兵数に劣る伊達軍は次第に伊達軍は潰走し、連合軍は伊達本陣に突入。
この時政宗自身も鉄砲で撃たれあわや討ち死に寸前に追い込まれます。
政宗絶体絶命、そんな窮地に伊達家の老将鬼庭良直左月斎が決死の突撃を行います。
これにより撤退路を確保できた伊達軍は本宮城へと撤退。
こうして「人取橋の戦い」は義重率いる連合軍の大勝に終わります。

なおも追撃しようとする義重でしたが不在の間に北条氏などの敵対勢力の動きを懸念し常陸へと戻ります。
決着こそつきませんでしたがこの「人取橋の戦い」により伊達家は回復に専念せざる負えなくなり、伊達軍の東北進行は一時止まりました。
蘆名家を傘下に!しかし...
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伊達家に圧勝した義重ですが、依然として脅威がなくなったわけではありませんでした。
北条との「沼尻の戦い」に引き分けた義重でしたが、講和の内容は北条に有利なものでした。
これにより南と北に不安要素を残す義重はより秀吉との連携を強めますが、
秀吉の方も九州への出兵や小牧・長久手の戦いの戦後処理などで直接関東に出兵することができませんでした。

そこで義重は蘆名家を本格的に傘下にする動きに出ます。
蘆名家当主の蘆名亀王丸がこのころ若くして急死
20代目当主の座をめぐって再び蘆名家は揺れていました。
そこで義重は自らの次男白河義広を次の当主の座に推薦します。

このころ蘆名家は暫定体制として参謀の金上盛備が代理の立場で国を運営していました。
もちろんこの時伊達陣営からも小次郎を当主にという勧誘を受けており、盛備は二人の後継者候補で揺れる家中を案じ、先代からの盟友関係である佐竹家を優先しました。
こうして白河義広は名前を蘆名義弘へと変え、正式に蘆名家当主に就任。
蘆名家は佐竹家の事実上の傘下勢力となり、義重は常陸全域と会津を領する大大名へと上り詰めます。
 
蘆名当主となった蘆名義弘は1588年、伊達政宗が山形最上を拠点とする最上義光に敗北した戦い(大崎合戦)を好機ととらえ伊達の同盟先田村家の領土に攻撃を行います。(郡山合戦)
しかし政宗はこの危機的状況を家臣の奮闘もあり何とか乗り越えると逆に反転攻勢に転じ、郡山の戦いは膠着状態に陥りました。

ここで義重を悩ませたのが秀吉が当時出した「惣無事令」という法律でした。
これは大名同士の許可ない戦争を禁止するもので、秀吉と親しい義重であっても許可のない戦争をするわけにはいかない状況にありました。
結果的に郡山合戦は伊達家有利の条件で和睦に至り、ここまで順調だった佐竹家の勢いに陰りが見えはじめます。
 
蘆名家滅亡!?摺上原の戦い!
1589年7月、伊達政宗は同盟先田村領に防衛のため向かうと見せかけ突如現在の南相馬市を拠点にしていた相馬家に攻撃を行います。
蘆名家と同盟を結んでいた相馬家当主の相馬義胤はこれを聞くと防衛のため自国に撤退、しかしこの攻撃の真の目標は蘆名家の方でした。

政宗は蘆名家家老の猪苗代盛国と密かに内通しており、盛国はこのタイミングで政宗に恭順、挟み撃ちを掛けられた蘆名義弘は猪苗代湖近くの磐梯山麓の摺上原という土地で伊達軍と戦います。
しかし政宗の調略に乗った一部の家臣は動かず蘆名家は大敗、義弘も居城黒川城を捨て佐竹家へと逃げ戻ります。
一般的に摺上原の戦いと呼ばれるこの戦いで伊達政宗は米沢と宮城県の一部、そして福島全域を支配することになり日本全国3位の大大名となりました。
この戦いで事実上佐竹家は何もすることが出来ず、南からは北条、北からは伊達と強力な2大勢力に挟まれることになります。

義重は1559年に自身の隠居を宣言、これは一連の責任を自ら取った形であり、佐竹家は滅亡の危機にさらされることになります。

絶体絶命の危機に見舞われた佐竹家、この危機に鬼義重の後を継いだ若き当主が奮闘します。

またまた長くなってしまったので続きは次回にしたいと思います!
次回も読んでいただけると嬉しいです😄
ではまた!

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