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2024.12.16

歴史深堀り 松本城!

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スタッフ名:歴女の福井

皆様、いつも休暇村スタッフブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。

本日は、松本観光にて欠かせない、松本城をご紹介します。
プロジェクションマッピングなど、様々なイベントが行われる松本城。ただ訪れて松本城を楽しむだけでなく、松本城の歴史を踏まえて訪れるともっと面白くなりますよ!
松本城について皆様はどんなことをご存じですか。国宝に指定されていることは知られていますが、松本城がどんな歴史を辿ってきているかは知らない方が多いのではないでしょうか。ということで、今回は、歴史を深堀していきます。
 
そもそも松本城は、最初から松本城と呼ばれていたわけではなく、それ以前は「深志城」と呼ばれていました。深志城を築城したのは、当時信濃国を任されていた小笠原氏で1504年~1520年の間に建てられました。

この小笠原氏は、もともと鎌倉時代に源頼朝に仕えた長清という人から始まっており、甲斐源氏という一族の人です。
ちなみにこの甲斐源氏とは、清和天皇の皇子が天皇という身分から離れた一族の中でも、甲斐国に住んだ人たちのことをさします。
当時、どの天皇もたくさんの皇子や子女がおり、財政を圧迫することに加え自身の皇位継承の可能性が極めて低いことから、皇位継承の可能性がほとんどない人たちは、天皇の身分から離れ貴族として生活していました。皇族が就任する官職があまりにも限定的で収入が安定しなかったこともあり、貴族となり幅広い官職となったほうが収入が安定したため、メリットが大きかったのでしょう。

そして、この甲斐源氏の中でも、甲斐国(現在の山梨県)にある小笠原という場所に住んでいることから、小笠原という姓がつけられました。
 全部まとめて簡単にいうと、周辺地域回り全部同じ苗字で、時々同じ名前の方もいるので、わかりやすいように「(甲斐源氏の中でも)小笠原にお住いの○○さーん」って呼んでる感覚ですね。住んでる地域名を姓にしていることは、非常に多く見られます。自身の苗字のルーツがわかってしまうと考えると、ちょっとおもしろいですね。

そして、実はこの同じ甲斐源氏の中には、戦国大名の武田氏もおり、敵同士であったものの、血筋的に見れば、小笠原氏と武田氏は遠い親戚同士なのです。
 
話が大幅にそれてしまいましたが、この小笠原氏が建てた深志城はその後武田氏から攻撃を受けて落城してしまい、さらには城主だった小笠原一族は追放され武田氏の城となります。

ですが、長篠の戦いによる武田氏の敗北に加えて、衰退しているときを狙われ襲撃をされたことにより武田氏は滅亡し、小笠原家が深志城を取り戻すことになりました。武田氏に、追い出された後小笠原氏は徳川家康のもとで活動、そして奪還後、深志城を「松本城」と改めました。

その後は、小笠原家が別の場所を任されることになると、松本城に石川数正が入城し城下町や天守
の整備を行いましたが、江戸初期に大久保長安事件によって、首謀者長安と共謀して不正をおこなったことで、領地が剝奪され、また小笠原家が松本城に入城することとなり松本藩の中心として機能することとなりました。
以降は、飢饉による騒動や本丸御殿の消失等、度重なる困難に見舞われましたが、地域の人たちによる修復と保存によって現在まで残り、1936年に天守が国宝に指定、2006年には日本100名城に選ばれるなど、多くの人々に愛されながら今も、松本の人々を見守ってくれています。

いかがだったでしょうか。松本城は様々な歴史の舞台となっています。当時の人々が天守から城下町を見守っていたり、この場所で戦略を考えていたりしていたのだろうなという、ドラマがたくさん詰まっています。

松本城が見てきた人々の姿は、いったいどんなものだったのでしょうか。歴史上の人物の、書物には語られていない姿を見てきたんだな~、どんな人だったのか見てみたいな~と私は考えてしまいます。

最近は、神社仏閣にある御朱印のように、日本の城を巡って集める「御城印」というものが存在します。旅の思い出を、記憶にも御城印という物にも残してみてはいかがでしょうか。

以上、歴女の福井でした。
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