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2025.09.21

激戦の跡地  川中島古戦場八幡社 

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スタッフ名:歴女の福井

みなさま、いつも休暇村スタッフブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は、神社を一つご紹介します。
 
今回ご紹介するのは、川中島古戦場史跡公園にあります八幡社です。
この神社は、元々平安中期、源顕清という元天皇の側近が、兄の失脚により信濃の国に流された折、この地を訪れ武運長久を祈り八幡大神を境内にあるご神木の大欅に包まれる鞘堂内の神殿に祀られたのが始まりとされています。
そして、川中島合戦では八幡大神を崇敬する武田信玄は当神社境内地を本陣(枡形陣形)とし、破壊された神殿を高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営を行っています。
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こちらのご祭神は、勝運必勝の神、厄除、交通安全、安産にご利益がある誉田別命(ほんだわけのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)の二柱となります。
 
この場所は、まさに歴史が動いていた中心地 ワクワクしますね。
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この神社で知られているのは、なんと言っても信玄と謙信の一騎打ちの銅像があるところですね。川中島の戦いは、12年の間の5回起きており、その中でも最も激しい戦闘であったのは1561年9月10日の戦いです。その戦いで、一騎打ちがあったとされています。その様子が、銅像となっています。将同士が一騎打ちをしているというのは、やはり興奮しますね。
実は、この場面で、謙信が持っている刀は、小豆長光であると判明しているらしいです。私は、こんなところでこんな出会いが…と思って少しびっくりしました。…刀剣好きならばわかる…はず…
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他にも、この社殿周辺には決戦での跡がたくさん残っています。
中でも、私が最も記憶に残ったのは、一騎打ちの銅像のすぐ横にあった首塚です。

え…なんで…って思われるかもしれませんが、詳しく言えばその首塚にまつわる伝説です。この首塚、信玄の部下であった高坂昌信が、合戦の後戦死者を敵味方区別なく手厚く葬った塚だと言われています。その後、その行動に感動した謙信が、同盟破棄によって食塩の不足で困った際、食塩を送って救ったとされています。「敵に塩を送る」という言葉ができるきっかけとも言えます。伝説のきっかけが、まさか首塚であるというのは、私も知らないことだったので、歴史の勉強になったと同時に、ロマンを感じて感動しました。

ちなみに、この高坂昌信という人、甲斐武田家臣で武田四天王の一人であり、「逃げ弾正」という異名を持つ人であります。無益な戦いを避け、冷静な判断力で「勝って兵を退く際に被害を出さずに引き上げさせる」ことを得意とした戦術家への尊敬の念が込められた呼び名です。無理な戦いをしない慎重さからこの名で呼ばれ、三方ヶ原の戦いでは徳川軍の追撃を無益と反対した逸話もあります。冷静な判断力で見極める高坂昌信、格好いいですね。
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この神社では、御朱印帳や御朱印、お守りなどあります。私は、心が強くあるように、冷静に判断できますようにという願いを込めて、信玄公と謙信公のお守りどちらもいただきました。どうか私の力になってください、パワーを分けて下さいというふうに再度お参りをしながら…
さすがに、もう戦わなくても大丈夫な世の中なので、二つとも持っていても喧嘩はしない……はず…
 
また、御朱印も様々なものがあったため散々悩んで、選び抜いたものを直筆でいただきました。信玄公と謙信公が描かれた御朱印帳もいただきました。表紙もとてもかっこいい!!

 
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みなさまも、この歴史が大きく動いていたこの場所でそのパワーをいただきにお参りしてみてはいかがでしょうか?
以上、歴女の福井でした。

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