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2023.12.20

府中三人衆の一人「不破光治」居城 -「龍門寺城跡」-

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スタッフ名:杉森

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こんにちは!
本当に寒くなりました!福井でも初雪を観測し、本格的な冬の到来を感じます。休暇村越前三国前の海は、高波が押し寄せ「THE、日本海」と言わんばかりの風景が広がっています。もちろん、ホテル内は暖かいので「いい景色だなぁ」と見てられますが、一歩外にでると、冷たい強い風と、顔に当たると痛いくらいの細かい雨粒がより一層寒さを感じさせ、ダウンジャケットが手放せない今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
スタッフの杉森です。
 
今回は府中三人衆の最後、「不破光治」居城「龍門寺城跡」をご紹介したいと思います。前回、前々回ご紹介した「前田利家」、「佐々成政」よりは知名度が下がりますが「不破光治」も一緒にご紹介したいと思います。
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「龍門寺城」は名前からして城郭寺院である事が伺えます。まず、「龍門寺」が1299年に開創、敷地は南北が80m、東西90mと1771年の府中地図には記されています。城跡は本堂一帯が高くなっています。時は流れ1573年、朝倉氏の家臣であった富田長繫が朝倉氏滅亡の際、織田信長に降って、府中を領し「龍門寺城」を居城としました。その時に築城されたと云われています。富田長繫はその後、1574年一向一揆で信長の守護代・前波吉継を討ち、魚住景固父子を謀殺し越前一国を支配しますが、家臣の裏切りと一向一揆の襲撃を受け討ち死にします。その期に織田信長が再び越前を平定し、この「龍門寺城」に府中三人衆の一人「不破光治」を与えました。
この「龍門寺城跡」に行ってみました。辿り着くまでかなり苦労し、車一台ギリギリ入れる道が曲がって続いており、この辺りも昔のままの姿と感じました。やっとの思いで辿り着くと城跡の説明看板が迎えてくれました。
看板には「龍門寺城」の歴史案内が書かれていました。大まかには明智光秀が一向一揆を討ち、越前平定後「不破光治」が入城。その後一度は廃城になるが木村常陸介重茲が府中に入封し、龍門寺を再興したとの事です。
こちらの看板には、「不破光治」の歴史について簡単に書かれていました。この城で「不破光治」の人生に大きく関係してくる「前田利家」。看板には前田家の家紋が入っていました。
「不破光治」とは・・・出自は美濃の国。始めは斎藤氏に仕え、稲葉、安藤、氏家の三人と共に西美濃四人衆とも言われた。つくづく何とか衆が付くのですね。その後、齊藤氏滅亡後は織田信長に仕え、浅井長政とお市の婚約をまとめ挙げたり、小谷城攻め、伊勢長島攻め、一乗谷城の戦い等、沢山の戦に参陣し武功を上げていきました。前出の通り信長が越前平定の際には「龍門寺城」に入り、府中三人衆と呼ばれました。越前8郡を預けられた柴田勝家に対する目付役となりながらも、勝家の与力「越前衆」の武将としても前田利家らと共に行動しました。その後も数々の戦をに参加し、越前国において死去しました。
「前田利家と松と龍門寺城」…「不破光治」の後を継いだ「不破直光」の代には前田利家に臣従しており、柴田勝家に与して賤ヶ岳の戦いに敗れた後、前田利家は松と共に羽柴秀吉を「龍門寺城」に迎え、以後秀吉政権を支える大名としての地盤を固めていったそうです。元々は前田家、羽柴家は友人関係でしたが、賤ヶ岳の戦いで主従関係に変化していきました。
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龍門寺周辺は、昔ながらの建物が垣間見れたり、屈折した4本の道が交差した「卍が辻」という施設が有ったりします。「卍が辻」はそれぞれが行き止まりに見える様になっており、見通しが悪くすることで侵入する敵を欺く城の大切な物だったと思われます。実際歩いてみると本当に見通しが悪く、敵はここを恐る恐る進軍したのかと思うと、何故か戦国のロマンが感じられました。

今回の紹介は以上になります。前回、前々回も伝えましたが、越前市は古い街並み、神社、仏閣が数多く点在していますので、目的を決めずにぶらり街並み散策もいいかもしれません。
休暇村越前三国にお寄りの際には、是非、行ってみてください。楽しいですよ!

「龍門寺城跡」(現龍門寺)越前市本町9−5 休暇村越前三国より車で約60分 ※運転にはご注意

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