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2023.01.25

「天皇の料理番」料理で日本のステータスをあげた男

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スタッフ名:杉森

~福井が生んだ料理人「秋山徳蔵」~
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こんばんは!スタッフの杉森です。今回ご紹介する福井の偉人は「秋山徳蔵」です。
「秋山徳蔵」はその生涯を描いた小説やドラマ化作品のタイトルから「天皇の料理番」として知られる。皇室の食卓を預かり、宮中で行われる公式行事の料理を掌るのみならず、日本における西洋料理の普及にも大きな足跡を残し、新設された宮内省大膳寮の初代厨司長にまで上り詰めた人物です。
さて、この様な人物がどのような人生を歩んで行ったのかご案内します。
ちなみに↑の写真は、「秋山徳蔵」の出身地福井県越前市の料理屋さんが、当時の料理を再現したもので、レシピは残っておらず、その時代の色々な書物、資料等から考察し再現したものです。
~「秋山徳蔵」の破天荒な幼少期~
福井県武生の片田舎で生まれ育った秋山徳蔵。幕藩体制時代に十村を務めた家柄なので建物も立派で不自由のない生活をしていたようです。  ※十村とは庄屋のような役人ですが身分は庄屋よりも上
性格はというと、ちょっとわがままで思い通りにならないと暴れて手におえないこともしばしば。
そんなワガママ坊っちゃんが10歳のときにいきなり、「坊主になりたい!」
でもなぜ坊主になりたいと思ったのか、実は坊さんのスタイルや立ち振舞いがカッコ良かったとか、上品さに憧れた、ただそれだけでなりたいと考えたのです。
でも、いざ坊主になると頭にカミソリを当てられた時にイタイとわめき始め、寺を抜けだして家に帰ってしまったそうです。なんとか家のものが取り押さえて父親が髪をソリ、坊主姿になったら気分が良くなったのか、無事寺に戻ったのです。
お寺の修行僧とは言え急に良い子になるはずもなく、ここでもワルガキぶりを遺憾なく発揮されていたようです。そんな中、ついに決定的な出来事「お墓倒し事件」をおこします。徳蔵がお世話になっていたお寺は歴史が古く、寺の後ろには先祖の和尚の墓がズラリと立っていたのです。それを見て「押したら倒れるんじゃね?」と思うと居ても立っても居られず押してしまいました。さらに、ここは山寺ですから見事に崖の下へ落ちてしまったのです。しかもあろうことか何体も・・・・。
これはアカンやつや・・・。
ということであっけなく破門を食らってしまい、仏の道は1年足らずで終わってしまったのです。
~西洋料理との出会いが料理人の道へ~
実家の仕出し屋が鯖江三十六連隊の将校集会所の賄いをやっていた関係で集会所を訪ね、そのとき初めて口にした洋食・カツレツの味に衝撃を受け西洋料理のコックになることを志したそうです。
高等小学校を卒業したのち、16歳で単身上京し華族会館の見習いとして料理人としてのキャリアをスタートしました。そこで3年間修業し、他にも駐日ブラジル公使館、築地精養軒で修業しました。精養軒では、フランスのオテル・リッツ・パリでオーギュスト・エスコフィエに師事した第4代料理長・西尾益吉の下で学び、西尾に倣ってフランス行きを決心し、仕事のあとに料理原書を持ってフランス語の個人レッスンに通った。修行中当時は何か間違ったやり方をしていると、まずは先輩達から鉄拳制裁が飛び、そのあとで教えてくれるのが普通だった。しかし、秋山はひたすら腕を磨きたかったので体罰ぐらいは何とも思わず、むしろ何か新しい事を知る嬉しさの方が勝ったという。その後、腕を磨き「東洋軒」三田本店の3代目料理長に就任しました。
~フランスへ渡航 人種差別を実力で克服
料理の基礎を学んだ徳蔵は本格的な西洋料理を学ぶため、私費でフランスへと渡ります。この時代では、料理人修業のための渡欧は稀なことであったそうです。
ベルリンのホテル・アドロンの調理場を経て、パリの日本大使館の紹介により、オテル・マジェスティックの厨房で2年間修業。当時は東洋人であることを理由に人種差別を受けました。しかし、幸いなことにフランスは実力主義社会であったため、人種差別を受けながらも地位を上げていく事になります。そして、苦労の末に料理の腕を認められるようになり、その後、キャフェ・ド・パリに半年、当時最高と言われたオテル・リッツ・パリにおいてオーュスト・エスコフィエの下で半年修行しました。秋山はフランスをすっかり気に入ってしまい、また、自分は次男でもあるので一生フランスで過ごそうと本気で考えたそうです。オテル・リッツ・パリで半年修行した後、次に南仏ニースのオテル・マジェスティックに移って勤務しました。御大典の仕事が済んだら再びフランスに戻る事も考えていたほど未練があったそうです。
~遂におもてなしで一流国の仲間入り~
駐仏日本大使栗野慎一郎から、大正天皇の御大典での賓客向けの本格的な西洋料理の指導者として帰国して欲しいとの要請がありました。
「秋山徳蔵」としては、今まで世話になった栗野からの要請でもあり、しかも御大典での料理の総指揮となれば一世一代の大仕事とも思われたので引き受ける事にしました。1913年、パリの日本大使館の推薦により宮内省に招かれて帰国。東京倶楽部料理部長を経て、新設された宮内省大膳寮の初代厨司長に任じられました。しかし、メニューづくりに大変苦労し完成するまでに1ヶ月かかったそうです。メニュー作成で苦心している時に、「捨ててみても、落としてみても、頭に沁みついて離れない料理が残ってくる」との事で、その一つが、「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」だったそうで、欧州では食材として親しまれるザリガニであったが、現在日本国内にも広く棲息するアメリカザリガニとも違い、ヨーロッパザリガニと呼ばれるこの品種は日本に生息していなかった。だが、日本でも北海道に食用に適したザリガニであるニホンザリガニが棲息している事を秋山が知っていた事も、ザリガニ料理を御大典の饗宴のメニューに加えた理由の一つであった。
~大正天皇の御大礼とザリガニ騒動~
式典が近付いたある朝、ザリガニが消えたと報告する厨房員の声に秋山は起こされました。厨房の生簀を確認すると、確かにザリガニは一匹残らず消えていて、秋山らは色を失った。そもそも厨房には厳重に鍵がかけられており、部外者は完全立入り禁止にしており、隣室には大勢の大膳寮職員が泊まり込んでいるので盗まれる筈が無かった。今さら代わりのザリガニを確保出来る訳も無く、しかも饗宴の献立表はすでに印刷が終わっており、メニューを変更したところで献立表の刷り直しはもう間に合いそうも無い。急報で秋山の上司大膳頭福羽逸人も旅館から駆けつけて来た。秋山としても「腹切りもの」だが、「大膳頭とても重大な責任問題」は免れない事であった。3時間ほど経ってから、秋山の部下の一人が突然素っ頓狂な声を挙げ、ザリガニ発見を秋山に知らせた。見ると、厨房の壁際にずらりと並べてあった荷物の物陰に5、6匹ほどザリガニが固まっていた。その部下がたまたま荷物を一個持ち上げたら発見したという。秋山は直ちに厨房内の全ての荷物を持ち上げて確認する事を指示した。すると「いるわ、いるわ、あっちに十匹、こっちに二十匹」と、たちまちほぼ全てのザリガニを捕獲し、不足は僅か5、6匹ほどであったという。
安堵と放心で、秋山はその場に「ヘタヘタと坐り込んでしまいそうになった」そうです。
色々な事がありましたか、御大典の饗宴は無事に外国の要人たちを満足させる事ができ、文化的にも欧米と肩を並べることが出来ました。

今回の「秋山徳蔵」はいかがだったでしょうか。ちょっと癇癪もちで、でも、純粋に料理に向き合い、差別にも屈する事無く、ただひたすら美味しい料理を突き詰めた人です。晩年には、レトルト食品なども肯定する考えも持っており、柔軟な思想の持ち主でもあったようです。今回は以上になります。次回もお楽しみに!

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