嫁威伝説と蓮如上人・・・吉崎御坊・・・②
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スタッフ名:杉森
~仏教の尊さを伝えた「蓮如上人」とは~
おはようございます。スタッフの杉森です。
今回は前回の第二弾、「嫁威伝説と蓮如上人」…吉崎御坊…②を進めていきたいと思います。進めていくにあたり、まず「蓮如上人」とは何ぞやというところなのでご紹介していこうと思います。今から607年前、 1415年に、蓮如上人はお生まれました。親鸞聖人が1263年にお亡くなりになってから152年を隔てる室町時代の中期です。当時の将軍は足利義満の子の第4代、足利義持でした。
やがて全国を巻き込む応仁の乱に向かって政治が不安定になっていく時代の変わり目でした。
3代目の覚如上人が1351年に亡くなってからもすでに64年が過ぎており、その間に本願寺はすっかり衰退し、天台宗の末寺になっていました。その7代目の存如上人が、蓮如上人のお父さんです。そして、「蓮如上人」がわずか6歳のころ母親がいなくなりました。翌年、幕府の奉行を務める海老名氏の娘、如円が存如上人の正妻となり、「蓮如上人」の継母となりました。やがて如円の子供が生まれると、継母は蓮如上人に辛く当たるようになり、ある時、着ていたものがチクチクするので、調べてもらうと綿の中から細かく折られた数千本の針が出てきました。このままでは命が危ないと思った本願寺の家老がお預かりすることになりました。、
~極貧の少年時代~
当時の本願寺には参詣者も財施もほとんどなく、継母の如円は、6人の子供を生み、自分の子供を本願寺の跡継ぎにしようとしますので、蓮如上人は経済的に困窮しました。食べる物もなく、2、3日食事ができないこともよくありました。あたたかいお風呂につかることもできず、水で足を洗うだけでした。そんな貧しい少年時代に、親鸞聖人の教えを学び、勉学に励まれたのです。
~15歳にして浄土真宗の再興を志す~
「蓮如上人」は夜、親鸞聖人のご著書を拝読しようと思っても、灯油が買えませんでした。そのため少しずつ薪を焼いたり、月夜には月明かりで親鸞聖人の教えを学びました。特に力を入れて拝読されたのは、親鸞聖人の主著『教行信証』でした。『御一代記聞書』に「聖教はよみやぶれ」といわれているように、『教行信証』の表紙が4回も破れるほど繰り返し読まれたといいます。そこには、すべての人が生きているときに本当の幸せになれる、「平生業成(へいぜいごうじょう)」の教えが明らかにされています。それにもかかわらず、廃れきった浄土真宗の現状を歎かれ、15歳のとき、浄土真宗の再興を志し、常に念願されていた、とこう言われます。今はさびれてしまったこの尊い浄土真宗を再興し、何としても我が一生の間に、親鸞聖人の教えをすべての人へ伝えねばならないと常に念願して、教学の研鑽に打ち込まれたのです。
~波瀾万丈な青年時代~
35歳の時、本願寺の住職の慣例として、存如上人と東国布教へ行かれます。
親鸞聖人が新潟県へ流刑にあわれたのと同じ35歳のときには北陸から関東へ赴かれました。「蓮如上人」を迎える門徒もほとんどなく、乗り物はありませんので徒歩で、布教に回られたのです。各地に残る親鸞聖人のご旧跡も巡られますが、どこにも本当の親鸞聖人の教えは伝えられていません。何としても浄土真宗を再興せねばならないと闘志を燃やされたのです。
43歳の時、本願寺8代目を継承します。初めは「蓮如上人」の継母如円が、自分の息子応玄を本願寺8代目にしようと動きますが、北陸の如乗がかけつけ説得に尽力し、ついに蓮如上人が8代目に決定したのです。腹を立てた如円は、本願寺の蔵からお経やお聖教などの財産をすべて持って、加賀へ引き上げました。後には味噌桶一つと小銭が残されていただけでした。
ところが3年後に如円が亡くなったとき、蓮如上人は葬儀に参列し、これまで育ててくだされたご恩に厚く感謝し、棺桶を持たれて葬式の行列にも参加します。これに感動した如円の子の応玄は、これまでの自分の行いの浅ましさを後悔し、お聖教をすべて蓮如上人にお返ししたといわれます。
51歳の時、浄土真宗の興隆をねたんだ比叡山が、本願寺を「仏敵」と認定し、京都大谷の本願寺を襲撃します。150人の僧兵が本願寺を襲い、蓮如上人は足の指を2本切り落とされながらも、かろうじて避難されますが、僧兵は財宝を略奪します。約20キロ離れた堅田から、法住を中心とする200人が駆けつけたときには、僧兵は退却した後でした。仏敵とされた以上、どちらが釈迦の教えなのか明らかにしようと法論を申し込んでも、比叡山は応じず、非難攻撃をするばかりです。
駆けつけた佐々木如光が、「おそらく比叡山の狙いは金でしょう」とすぐに三千疋を集めて比叡山に送ると、僧兵は黙ってしまいました。「蓮如上人」は、大変な迫害の中でも各地を布教されると、僧兵は3月21日に再び大谷の本願寺を襲い、完全に破壊してしまいました。3代目の覚如上人が建立された大谷本願寺の最後でした。
~ちょっと息抜きに~
ちょっと「蓮如上人」の人生?半生が濃すぎるので、息抜きの話題をご紹介したいと思います。福井県あわら市吉崎地区へ行く途中には、写真の様な赤い小さな鳥居がたくさん建てられています。これはポイ捨てを無くすために立っており、吉崎小学校の生徒たちも、この鳥居の意味を知り、自分たちもこの鳥居を作り、立て美化運動に毎年参加しているそうです。なんとなく「吉崎御坊」があるこの地区にふさわしい取り組みに感じ、微笑ましくおもえます。皆さん、この鳥居をみたらポイ捨てはしないようにお願いします。(鳥居が無くても)
~波瀾万丈な人生の続き~
57歳の時、吉崎御坊を建立します。最初は「虎狼の棲みなれし」といわれる寂しい山の中でしたが、蓮如上人が親鸞聖人の教えを説き始められると、たくさんの人々が集まってきました。加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州7カ国から群集しています。あまりにたくさんの人が集まるため、浄土真宗の朝晩の勤行で拝読する親鸞聖人の『正信偈』と『和讃』の書写が間に合わず、木版印刷が始まりました。また、「多屋(たや)」といわれる宿泊施設が、100軒も200軒も立ち並んだといわれています。ところが、人が集まると同時に、「蓮如上人」を亡き者にしようとする者も現れ始めます。信者が減って行く他宗の僧侶が、吉崎御坊を攻撃する軍勢を準備していると噂されるようになります。「蓮如上人」が山中温泉に行かれたときには、僧兵に追われ、洞窟に隠れられてやり過ごされることもありました。蓮如上人は、戦争を起こしてはならないと常に戒めてこられましたが、加賀の富樫政親と門徒との武力衝突が起きます。結局破れた門徒たちは、「蓮如上人」に和解の仲介をお願いにやってきます。ところがそれを蓮如上人に取り次いだ安芸の法眼といわれる蓮崇(れんそう)が、「蓮如上人は加賀と越中の門徒が協力して富樫を打ち破るように」とおっしゃったと偽ります。これによって戦闘が激化した富樫政親は、吉崎の襲撃を計画します。
それを知られた蓮如上人は61歳の8月21日に吉崎を撤退され、蓮崇は破門となります。
蓮如上人が吉崎にてご布教されたのは、わずか4年間でした。
その後浄土真宗の各宗派統一に尽力し、83歳の時には石山本願寺を建立するなど、精力的に親鸞聖人の教えを広めるための土台作りに勤しみました。そして、1499年85歳の3月25日に、浄土へ還って往かれたのでした。最後まで一日中思っておられたことは、すべての人に信心決定してもらいたい、ということでした。「信心決定」とは、阿弥陀如来の本願に救いとられ、生きているときに絶対の幸福になることということです。「蓮如上人」は最後まで人のことを思い、救いの手を差し伸べることを考えていたそうです。
~吉崎御坊跡地で~
この場所は、吉崎御坊の本堂跡です。「蓮如上人」がこの地を訪れた時に、この山の地形が大変良いとされ、原始林を伐り開き整地し門徒宗により建立されたそうです。
この石は「蓮如上人のお腰掛けの石」と言われています。二人の弟子とこの石に腰掛け、対岸の鹿島や浜坂あたりの景色を見ていたそうです。それから五百年経った今もこの石を参拝する方がいるそうです。
今回も「蓮如上人」の人生が、波瀾万丈過ぎてとても長くなってしまい、嫁おどしの肉付き面まで話が進みませんでした。なので何時か機会があったらこの続き、「嫁威伝説と蓮如上人」…吉崎御坊…③をやってみたいと思います。話をまとめられなくてすいませんでした。次回のブログで挽回したいと思います。是非期待していてください。
「吉崎御坊跡」 福井県あわら市吉崎1 休暇村越前三国より車で約30分