一乗谷朝倉氏「栄華と消滅」
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スタッフ名:杉森
こんにちは!スタッフの杉森です。今回は福井市東部の「一乗谷朝倉氏遺跡」をご紹介いたします。
まず、「朝倉氏」と聞くと"朝倉義景"が思いつくと思います。大河ドラマでは≪蹴鞠が好きな貴族かぶれとか、≪信長に倒された弱小大名≫とあまり良い印象は無いかも知れませんが、「朝倉氏」で見てみると、そんなに弱小大名だったわけではなかったのです。「朝倉氏」は初代「朝倉孝景」以来の名門でした。全盛期を築いたのは初代と同じ名前を授かった4代当主「朝倉孝景」。彼は室町将軍の名の下、治安維持のため出兵を繰り返しました。また、歴代朝倉氏の拠点である一乗谷を「北の都」と謳われる程の一大都市に育てあげます。京から近いため、応仁の乱で京から逃れた貴族や文化人の受け皿となり、雅な文化が一乗谷に広まったのです。こうして「朝倉孝景」は軍事力と豪華な都市で影響力を高め、幕府内での地位を上げていきました。現在「一乗谷朝倉氏遺跡」ではその時代の街並みを再現しています。
こちらの城下町の町並みは、ほぼ完全な姿で再現されているそうです。
町並みの中には、染物屋・味噌屋・商店等も復元されています。
また、その当時では考えられない物が各家屋に付いていました。それは『井戸』です。
もちろん武家屋敷には必然的にあったでしょうが、なんと庶民の家一軒一軒に備わっていました。
そんな朝倉全盛期に生まれた「朝倉義景」は、幼い頃から和歌や漢詩をたしなみ貴族のような暮らしを過ごしていたそうです。当初は「朝倉宗滴」の補佐をうけ順調な統治、開発を行っていました。特に一乗谷の近くの”九頭竜川”から下り”三国湊”の支配には力を入れ、琉球王国との勘合貿易を合意させ”越前の国”を一大交易拠点にしていきました。しかし、補佐役の「朝倉宗滴」が亡くなると、「朝倉氏」に陰りが見え始めます。それでも一時は、信長包囲網で追い詰め、「織田信長」に「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」と土下座で言わしめたそうです。しかし、求心力、カリスマ性、そして何よりも決断力の無さが災いし、周りの戦国大名や部下たちが離れていきました。そして、因縁の相手「織田信長」によって1573年「朝倉氏」は消滅し、一乗谷は全て焼かれたそうです。
朝倉義景は、大野郡に逃れましたが、最後は「朝倉景鏡」に裏切られ自害したと言われています。現在は義景公園の中に
"朝倉義景墓所"としてひっそりと佇んでいます。
ちなみにですが、義景公園には"義景清水"(よしかげしょうず)という湧水があります。
"義景清水"は"ふくいのおいしい水"として認定されています。(福井県の認定基準を満たした湧水の事)
飲用可能な湧水です。とても綺麗な水場なので一度立ち寄って喉を潤してみませんか。
今回は「一乗谷朝倉氏」をご紹介しました。栄華はやはりずっとは続かないものと改めて感じました。
タラレバはありませんが、もし「朝倉義景」が一歩前に出ていれば天下統一も出来たのかなと”復元町並み"をみながら想像していました。
今回のご紹介は以上です。次回もまた福井の歴史をご紹介したいと思います。是非ご覧ください!
一乗谷朝倉氏遺跡:福井市城戸ノ内町28-37(休暇村越前三国より車で約60分)
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