避難しない人が助かり避難した人が… ~磐梯山噴火・長坂の悲劇
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スタッフ名:高梨
私、高梨担当の前回12月11日のブログに続き、磐梯山噴火に関するあまり知られていない事実をお届けします。
それは明治21年(西暦1888年)7月15日午前のことでした。
数日前から軽微な前兆現象はあったものの、ほぼ突如として磐梯山は大規模な水蒸気爆発を起こし、岩なだれや火山泥流、爆風が磐梯山北麓や東麓を襲いました。これにより明治以降の日本の火山災害史で最多の477名の死者が出てしまいました。
(↑上の写真;長坂地区から見た磐梯山~一番右が櫛ヶ峰、大磐梯は左のコブ尾根の陰で見えない)
(↑磐梯山噴火の当時の錦絵;一番右の櫛ヶ峰が大きく描かれていることから、長坂付近からの様子と思われます)
このうちの最多の死者は裏磐梯地区の岩なだれによるものですが、次に多かったのが、猪苗代・長坂地区の火山泥流によるものです。しかもこの地区では、表題のように、避難した人々が犠牲になるという、意外な被災状況がありました・・・。
(↑噴火当時の長坂付近の火山泥流の堆積;あちこちに遺体が…)
それは、長坂地区の磐梯山に対する位置関係のなせるわざでした。
磐梯山が噴火し始めると、山頂の東側の山麓にある長坂地区からは、西の山頂の方向が真っ暗になり、百雷のような地鳴りや振動が続きました。最後の爆発で小磐梯は山体崩壊を起こし山頂から北側に崩れ、岩なだれが発生し
ました。
この時点で長坂地区は火山灰が降る程度で人的被害はありませんでした。
しかし、北側の裏磐梯地区を襲った岩なだれは、その後もとの地形に沿って向きを変え、火山泥流となって長瀬川の谷を北側から長坂方面に迫ったのです。
長坂地区の人々は、真っ暗になった西の小磐梯の方向に気を取られていましたので、山が崩れると思ってとった行動は、山から離れる~東の長瀬川の谷に避難することでした。しかし「悪魔」は西からでなく、北からやってきたのです。
(磐梯山ジオパークの研修会から)
立体地図に岩なだれに見たてた液体を流す。
岩なだれは、一旦北になだれ落ちたが、途中で南に向きを変え火山泥流となった。
(赤印が長坂の位置)
かくして避難した人たちが火山泥流にのまれ、観念し家を離れず避難しなかった人たちが助かったのです。この火山泥流で地区168人のうち86人が犠牲になりました。
現代は、火山・地震などの自然災害の予想される地域には「ハザードマップ」というものがあります。想定される災害や地形等から、被害想定地域が地図に示されます。その当時ハザードマップや災害への卓見が浸透していれば助かった人がいたかもしれません。
しかし明治の噴火の場合、一般的には稀にしか起こらない山体崩壊~岩なだれが、大磐梯でなく小磐梯で起き、それが長瀬川の谷にも大きな影響を及ぼしたのでした。とても想定の難しいことでした。こちらも、まさに長坂の悲劇でした。
(↑ハザードマップの例;磐梯山でマグマ噴火が起きた場合の被害想定図)
結局、地域の51%もの人が命を落としました。この人々が現代まで命をつなげていれば、今の長坂地区もかなり違った歴史を織ったことでしょう・・・
(↑長坂地区の下にある碑と磐梯山ジオパークの看板)
長坂地区は、磐越道猪苗代磐梯高原インターを降りて休暇村までの19㎞の道のりのほぼ中間にあります。長坂で右折して地区の民宿街を200mほど下ると被災地で、「殉難之精霊碑」と磐梯山ジオパークの看板があります。
火山がつくった美しい風景だけでなく、火山災害の現場やモニュメントもぜひ訪ね、災害に倒れた人々の無念さも偲んでみてください。このようなツアーをジオツアーといい、火山国日本ではとても大切なことと思います。
(↑国道459号にある長坂の入口;右下200m程の所が被災地)
磐梯山ジオパークは、日本のジオパークの中では早い時期に認定され、充実した展開がなされ、ホームページに詳しい情報があります。ぜひ検索してみてください。
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